13.帰り道




隼人と白雪が持ってきたのは、天音に渡す分の書類だけではなかった。ちゃんと人数分の計画書が用意されていて、有無を言わさず渡されたナツメはひとしきり文句を言っていたが、その割には大人しく計画に耳を傾けていた。
だが、数時間すると様子が変わってきた。時計代わりの携帯をひっきりなしに見ては、ソワソワと落ち着かなくなってきたのだ。やがてついにたまりかねたように声を上げる。

「いつまでやってんだよ! こんなにみっしりした計画書があるんなら、それに従やいんだろう!」
「どうしたの、急に? 大学と合同の体育祭なんて初めての試みだから、なるべく綿密に予定を立てておきたいんだけど。」

白雪が目をぱちくりさせると、ナツメは少し困ったように眉を寄せる。
しかし言い出した言葉は引っ込まないようだった。

「もう…もう、2時間も経ってるじゃんか! 始まりが遅かったのに、…これから家に帰ったら、6時過ぎちまうだろ!」
「えっ、もうそんな時間? …あ…。」

蓮があわてて立ち上がった。そうしてから、済まなさそうに一同の顔を見回す。

「あの…申し訳ありません、僕、そろそろ帰らなくちゃ…。」
「なんだ、急に。あと2ページで終わるぞ。それまで待てないのか?」

無理やり引き込んだ、正規でもない生徒会役員に向かって、隼人は尊大に言う。祥太郎は呆れて隼人と白雪を見た。
いかにも、蓮とナツメの自由参加を希望するようなことを言っておきながら、二人の態度は絡め取ったら放さないといわんばかりだ。もう二人の中では、彼らの役員就任は決定稿なのだろう。

「すみません、本当に…。家の事情で申し訳ないんですけど、6時までにお店に帰らないといけなくて。」

物腰は静かだが、きっぱりした様子で蓮は言う。それを見て、なぜかナツメは安心したようだった。

「そうだ! 帰れ帰れ! おまえなんかとっとと帰っちまえ、せいせいするぜ!」

そのナツメの言いようにカチンときたのは、祥太郎だけではないはずだ。
穏やかな白雪が珍しく眉をひそめ、隼人はきつい目つきでナツメを睨んだ。

「おうちの用事なら仕方がないね。帰っていいよ、松本君。」
「お前は当然居残りだけどな、ピヨ。」
「えっ! なんで!」
「まだ2ページ残ってるって言っただろ。」

「それに、ナツメ君は松本君と一緒に帰るのが嫌なんだよね。」

祥太郎は慌てて荷物を纏めると立ち上がった。途端にナツメが目を丸くする。

「一緒に帰ろう! 送ってってあげるから。」
「えーっ、マジずりぃ!」

祥太郎は驚いたように立ち尽くしている蓮の腕を取った。
日本橋にあるという蓮の店までは、今からなら普通に帰ると間に合いそうもない。でも、タクシーでも使えば何とかなるかもしれない。

「俺だって! 一緒の方向なんだから一緒に…つかむしろ、蓮はどうでもいいから、一緒に帰ろうよ! 祥太郎先生!」
「甘ったれんな、ピヨ。ノルマ残ってるって言ってるだろ!」
「まあまあ、ピヨ君、お茶もう一杯入れてあげるから、ね。」

飴と鞭とはまさしくこんなことを言うのだろう。祥太郎は隼人と白雪の連携に感心してしまう。

祥太郎は戸惑う顔の蓮の腕をしっかり捕まえた。意外に背の高い蓮にそうすると、まるですがり付いているみたいだ。そして、3人の方を振り向いた。
ナツメが涎でもたらしそうに羨ましそうな顔をしている。そんなナツメの襟首を捕まえた隼人が、早く行けとばかりに手首から先を振っている。
祥太郎は思わず鼻の頭に皺を寄せて、んべっと舌を出して見せた。生意気な隼人とナツメとを、牽制したつもりだった。
すると、ナツメはこの上なく嬉しそうな顔をし、隼人は大げさに頭を抱えてしまった。



蓮のしなやかな指が、何度も膝の上で組み変えられている。祥太郎は隣に座っている蓮のそんな様子を覗って、肩を竦めた。

「ごめんねぇ、松本君…。」
「あ…、いえ、とんでもない。もともと僕がぼんやりしていたのが悪いんです。」

蓮は薄く笑った。祥太郎はため息をついて腕時計を見下ろした。

渋る蓮を無理やり誘って乗り込んだタクシーの中だ。夕刻のラッシュにつかまってしまい、時刻はすでに6時を20分も回っている。目的地に着くには30分ほど遅れてしまいそうだ。

「でも、急ぎの用事だったんでしょ。えーと、…塾とか?」
「あ、いえ…。」

沈黙が苦痛で水を向けると、ややあって蓮は薄く笑った。

「毎週、火曜日と金曜日の6時以降は、僕がお店を任されているんです。将来僕がお店を継ぎますから、その修行の一環で。」
「へえー、松本君のおうちって老舗なんでしょう? 大変だねえ!」

心底感心してそういうと、蓮は気恥ずかしそうな顔をした。

「別に…松本家の長男としては当然のことです。僕も、和装って言う仕事は嫌いじゃないし。それに、長男って言っても。」

蓮は祥太郎を振り返った。
細い銀のフレームの眼鏡は、蓮の優しい顔立ちを引き立てている。少し伸び始めている髪を束ねて渋い絣でもあつらえたら、本当によく似合いそうだ。

「僕の上に姉が4人もいて、僕は甘やかされきった末っ子なんですけどね。」
「あはは。それじゃ僕も似たようなもんだよ。僕なんか姉と妹に挟まれてて、妹にまで甘やかされ放題なんだから。」

蓮が打ち明け話をしてくれたことが嬉しくて、祥太郎は朗らかに言った。

「でも、それじゃ遅くなっちゃったらいけなかったんだね。連絡とか、した?」
「いいえ、うちは祖父の方針で、携帯は一切持たないことになっているので、し損ねました。」
「えー? なにそれ?」

今時時代錯誤もいいところだ。高校生の孫である蓮に携帯を禁じる祖父も、厳格な祖父の言いつけを遵守する蓮も。

この年で茶道の準師範だという蓮の生い立ちが透けて見えるようで、祥太郎は緊張に背中を固くした。
そんな厳格な家庭の坊ちゃんを、連絡もなしに遅らせてしまったのは、祥太郎の責任だ。
ここまで付き合ったのだから、蓮を店に送り届けたならきちんとした挨拶をしないといけないだろう。



タクシーが目的地に着いたのは、やはり6時を30分回っていた。
蓮は店の百メートルばかり前で車を止めた。
店員である自分が、店先まで車を乗りつけるのはとんでもないことなのだそうだ。祥太郎はそんな蓮の言動にも、目を丸くしてしまう。
甘やかされきったと自ら謙遜する蓮は、その実厳しい躾を施されているようだった。

「先生、今日はどうもありがとうございました。むさくるしいところですけど、少しお待ちいただけませんでしょうか。タクシー代もお支払いしたいし…。」
「タクシー代はどうでもいいけど、ご家族の方にご挨拶させてもらおうかな。遅くなっちゃった言い訳もさせてもらいたいし。」

祥太郎がそう言うと、蓮は少しばかりためらう顔を見せた。それからはんなりと微笑んで、先にたって歩き始める。
招かれた店は、日焼けを避けてか間口は狭かった。だが、古めかしい暖簾を掻き分けると、そこは色とりどりの反物の溢れる世界だった。

「うわー…、きれいだねえ…。」
「季節柄、明るい色のものも出始めておりますし。今お茶を淹れてきます。よろしかったら当ててみてください。」
「えー、だってこれって、女性用じゃないの?」

祥太郎は手近に会った大きな金魚がゆったり泳ぐ浴衣地を引き寄せた。
間口に近くにあるのだからそれは客寄せのための商品なのだろう。こんな老舗には似つかわしくない廉価だった。
それは確かに女性物らしく、蓮は困った顔で少し笑った。

「確かにそれはお嬢様用ですけど、先生にもよくお似合いですよ。」
「蓮! 蓮は戻っているのか!」

奥のほうから蓮を呼ばわる声がする。蓮ははっと顔を上げた。

「会長が呼んでおりますので、ちょっと失礼いたします。」
「あ、僕も…。」
「いえ! こちらは帳場ですから…!」
「いいからいいから。僕はお客様じゃないんだから!」

強引かなと思わないでもなかったが、祥太郎は強く蓮の腕を引いた。
蓮を呼ぶ声に怒気が含まれていて、急いでいかないといけない気がしたのだ。

奥の暖簾をくぐると、そこは一転殺風景な事務室になっている。
日本橋のほかにも何店か店舗を持つという老舗の、業務を一手に引き受けるように立派なパソコンも数台。中央にあるのはコピーもファックスもできるという複合機だろうか。
店舗の古風な様子には似合わない、システム化された事務室だ。

その一角が一段高く、柱で囲われている。茶室ほどの大きさに和室が切られているのだ。
そこに、昔ながらの文机を置き、大きな帳面とそろばんを前に、銀の総髪をなびかせた老人が座っていた。
薄い体は蓮によく似ているようだが、きっちりといかめしい正座が、彼の厳格さを物語っているようだ。

蓮はまっすぐその和室に向かうと、靴を脱いで正座した。きちんと膝の前に手を着く。

「ただいま戻りました。大変遅くなって申し訳ありませんでした、会長。」
「………今何時だ、蓮。」
「はい。6時半です。」
「あっ、あのう…!」

二人の緊迫した空気に気おされながら声をかけると、銀髪の老人の鋭い目つきが祥太郎に向けられた。

「どなたですかな。部外者には立ち入ってもらいたくないのですが。」
「と、突然申し訳ありません、ぼ…私、松本君の担任の朝井と申します。今日は松本君に生徒会の運営のお手伝いをしていただいていました。引き止めちゃったのは私たちですので、どうか松本君をお叱りにならないで…。」

「蓮!」

鋭い声が祥太郎の言葉を遮った。呼ばれた蓮は静かに俯いたままだ。

「生徒会というのは、まさか日吉の子倅と一緒じゃあるまいな! 
日吉が孫は生徒会に勧誘されたと自慢しておったぞ! 日吉の子倅とじゃれあって、北沢様とのお約束を反故にしたわけではないな!」

蓮はぎゅっと肩を竦めた。祥太郎は、突然の老人の剣幕にただ驚いていた。

「答えないか、蓮!」
「………申し訳ありません。」

老人の顔が見る見る赤くなる。彼は方膝立ちになると、重そうなそろばんを振り上げた。

「あ…っ!」

ガツッと鈍い音がして、蓮が上半身を揺らした。





前へ ・ 戻る ・ 次へ